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政治家でもあり教育者でもあった…大隈重信の書はなぜ1つも残っていない?

2022年2月4日

雑学 - 歴史
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大隈重信という人物の名を聞いたことがある人は多いかと思います。
大隈重信は政治家であり、早稲田大学の創立者でもある有名な人物です。

そして、この大隈重信直筆の書は一つも見つかっていないとのことです。
今まで沢山の著書を残してきた彼ですが、なぜ発見されていないのでしょうか?

大隈重信とは

大隈重信は明治から大正にかけて活躍した政治家であり、2回も総理大臣になっています。
非常に器が大きい人物であり、自らのことを「楽天主義の人間だ」と度々語っていたそうです。

大隈重信
幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。
明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。
明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。
大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。
また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。

Wikipedia-大隈重信

恥じを感じて、一生文字を書かないと誓っていた

偉大な人物なのはわかりました。ですが、なぜ書物が残っていないのでしょうか?

その理由としては、彼が在籍していた佐賀藩の弘道館には達筆の者が沢山いたそうです。
どんなに練習したとしても彼らに追いつけない事に恥じた大隈重信は、一生文字を書かないことを誓ったそうです。

こうして大隈重信は手紙や日記をつけることもせず、万が一本などを書く場合には、口述筆記をさせたということです。
そういった理由から、彼直筆の書は存在していないようです。

ただ唯一、彼の貴重な自署が残っています。
大日本帝国憲法の原文で、黒田清隆内閣の外務大臣として自署をしました。

まとめ

かの有名な早稲田大学の創立者である大隈重信ですが、字が上手ではないことがコンプレックスのために直筆の書物が残っていないということでした。
非常に楽天的だったそうですが、負けず嫌いでプライドが高い様子が感じられますね。

ちなみに、早稲田大学の前身は「東京専門学校」として設立されていたわけですが、まだこの頃は覚えられにくかったのか呼びにくかった為か…街の人からは「大隈さんの学校」と呼ばれていたようです。

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