雑学 歴史

革命に散ったルイ16世の妹 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスの最期とは?

はじめに

フランス革命といえば、マリー・アントワネットやルイ16世の処刑がよく知られています。
しかし、その激動の時代において、王族の中で最後まで家族を見捨てることなく、運命を共にした人物がいました。
それがルイ16世の妹、エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスです。

彼女は王族として生まれながらも、一生独身を貫き、亡命せずに王族としての誇りを最期まで持ち続けました。
善良で信仰心の厚い彼女ですら、革命の渦の中で処刑される運命を辿ったのはなぜなのでしょうか。その経緯を振り返ります。

エリザベート

エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスとは

エリザベートは1764年にフランス王ルイ15世の孫娘として生まれました。
兄であるルイ16世とは特に親しく、王族としての誇りと信仰心を持った女性でした。

彼女は政略結婚の対象とされることもありましたが、王族の権利とフランスへの忠誠を理由に生涯独身を貫きました。
贅沢を好まず、慈善活動にも熱心で、多くの貧しい人々を支援したと言われています。

革命の中で兄一家と共に

1789年、フランス革命が勃発すると、王族の多くが亡命を選びました。
しかし、エリザベートは逃げることなく、兄であるルイ16世と王妃マリー・アントワネット、そして幼い甥姪たちとともに宮殿に留まりました。

1792年には王政が廃止され、王族はタンプル塔へ幽閉されました。この時、彼女はマリー・アントワネットと王太子の世話をし、精神的な支えとなっていました。

善良な彼女も処刑された理由

エリザベートは政治に関与しておらず、革命政府にとって特別な脅威とはならないはずでした。
しかし、王族というだけで革命政府は彼女を危険視しました。

1793年にマリー・アントワネットが処刑されると、エリザベートの運命も決まったも同然でした。

彼女は王族の一員でありながら、民衆の支持を集める可能性があると考えられたのです。

1794年、彼女は革命裁判にかけられました。明確な罪状はなく、「王族であること」が唯一の罪とされました。
わずか1日の審理の末、彼女はギロチン刑を宣告されました。

最期まで気高く

エリザベートは処刑場に連行される際、他の処刑囚たちを励まし、自らの運命を静かに受け入れました。
処刑の直前には、処刑人が彼女の背中に手を触れたことに対して「女性には敬意を払ってください」と諭したと伝えられています。

1794年5月10日、彼女はギロチンの刃の下で命を落としました。彼女が処刑されたのは、ロベスピエールが失脚するわずか2ヶ月前のことでした。

関連記事

まとめ

エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスは、フランス革命という激動の時代において、王族としての誇りを持ち続けた女性でした。
逃げることなく家族を支え、何の罪もないにもかかわらず処刑された彼女の最期は、革命の過酷さを象徴する出来事の一つです。

彼女の生き方は、ただの王族ではなく、人間としての気高さを示すものでした。
今でも彼女の生涯は、多くの歴史愛好家によって語り継がれています。

-雑学, 歴史
-