はじめに
フランス革命の中で悲劇的な運命をたどった王族の一人が、マリー・アントワネットの息子、ルイ・シャルルです。
彼は本来ならば「ルイ17世」としてフランスの王位を継ぐはずでしたが、実際には王位に就くことなく、幼くして過酷な人生を歩みました。
王家に生まれながらも、民衆の怒りと革命の渦に巻き込まれた彼の人生はどのようなものだったのでしょうか?今回は、ルイ・シャルルの生涯とその悲劇的な運命について詳しく解説します。
ルイ・シャルルの誕生と王族としての生活
1. 生まれながらの王位継承者
ルイ・シャルルは1785年3月27日に、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの間に生まれました。
彼は兄のルイ・ジョゼフが1789年に亡くなったことで、王位継承者となりました。
幼い頃の彼は、ヴェルサイユ宮殿で王族としての生活を送っていました。しかし、フランス革命が勃発すると、彼の運命は一変します。
2. 革命の激化と王族の転落
1789年にフランス革命が始まり、王室は次第に追い詰められていきます。
1791年には一家でオーストリアへの逃亡を試みますが、ヴァレンヌで逮捕され、パリへ連れ戻されました。
1792年には王政が廃止され、国王ルイ16世とマリー・アントワネットは投獄されました。
ルイ・シャルルもまた、家族と共に幽閉されることになります。
監禁生活と孤独
1. 家族との別れ
1793年1月、父ルイ16世が処刑され、同年10月には母マリー・アントワネットもギロチンで命を落としました。
王政は完全に崩壊し、残されたルイ・シャルルは、革命政府によってテンプル塔に監禁されます。
2. 劣悪な環境と虐待
王家の生き残りとして危険視されたルイ・シャルルは、「市民カペー」と名付けられ、革命政府の管理下に置かれました。
しかし、その生活は非常に厳しく、看守による虐待や極度の孤独の中で過ごすことを強いられました。
彼は十分な食事や清潔な環境を与えられず、身体的・精神的に追い詰められていきます。
わずか8歳の子供にとって、これは耐え難いものでした。
3. 虚偽の証言を強要される
革命政府は、王族を完全に否定するために、ルイ・シャルルに対して「母親マリー・アントワネットと不適切な関係を持っていた」と虚偽の証言を強要しました。
幼い彼は、圧力の中でその証言をせざるを得ませんでしたが、これは明らかに子供を利用した政治的な策略でした。
悲劇的な最期
1. 監禁の中で病に倒れる
1795年、約2年間の監禁生活を経たルイ・シャルルは、劣悪な環境と栄養不足のために結核を発症します。
しかし、適切な治療は施されることなく、次第に衰弱していきました。
2. 悲しい最期
1795年6月8日、ルイ・シャルルはわずか10歳で息を引き取りました。
正式な死因は結核とされていますが、長期間の虐待と劣悪な環境が彼の死を早めたことは間違いありません。
彼の遺体は簡単に埋葬され、後にDNA鑑定が行われるまで、その死亡について多くの憶測が飛び交いました。
ルイ17世を名乗った偽物たち
1. ルイ17世生存説
ルイ・シャルルの死後、「実は生きていた」という噂が広まりました。
多くの人物が「自分こそがルイ17世である」と名乗り出ましたが、いずれも証拠は不十分でした。
2. DNA鑑定による真実
2000年、彼の心臓のDNA解析が行われ、フランス王家の血統と一致したことで、本当に亡くなっていたことが証明されました。
まとめ
ルイ・シャルルは本来ならばフランス王として即位するはずでしたが、フランス革命によってその運命を奪われました。
幼くして両親を失い、過酷な監禁生活を送り、わずか10歳で亡くなった彼の人生は、まさに悲劇そのものでした。
彼の死後も「生きていた」という噂が絶えませんでしたが、DNA鑑定によりその真実が明らかになりました。歴史の渦に翻弄されたルイ・シャルルの短くも壮絶な人生は、フランス革命の残酷な一面を象徴するものといえるでしょう。